スバル車の歴史まとめてみました(その1)・・・濱田まさゆき
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スバルといえばボクサー(水平対向)エンジン、乗用四駆、STI チュー ンによるスポーティモデル、さらには「ぶつからないクルマ?」のキャッ チコピーで話題となった、先進運転支援システム「新型アイサイト」など、 個性的かつ洗練されたクルマを連想します。
団塊の世代なら恐らく、 日本で初めて乗る人を満足させることができた軽自動車、スバル360を思い出すかもしれません。
スバルのルーツは、1945 年 8 月 15 日の敗戦まで、従業員およそ 25 万 人を擁した、三菱重工業と並ぶ、わが国最大の飛行機メーカーであった中島飛行機。
中島飛行機の歴史は、中島知久平という非凡なひとりの 青年の
「航空機が日本の未来を拓く」
という予見と行動力により起業。
やがて、大正から昭和へと時代が変わるころ、航空機は軍事力の要と認識されるようになり、日中戦争の戦火が拡大していくなかで、軍の増産要請に応え、次々と工場の拡張を進め、数々の名機を生み出すが、1941 年 12 月8日に米英に宣戦布告して第2次世界大戦に参戦後、しだいに悪化する戦局のなかで、中島飛行機の工場は米軍の重点爆撃の対象とされて壊滅状態となり、敗戦とともに輝かしい歴史に幕を閉じました。
民需部門を持たなかった中島飛行機は、富士産業と社名は変更したが、 その工場すべてが財閥解体の対象となり、敗戦後の民需転換はゼロからのスタートとなりました。
第二会社12 社に分割されたが、やがて5社が合併して富士重工業が誕生します。ラビットスクーターを稼ぎ頭に、バスボディー、 航空機、鉄道車両などを手掛けていたが、やがてスバル 360 を開発して自動車生産を開始しました。
週1更新で中島飛行機の誕生から終焉まで、そして、 富士重工業誕生までのショートストーリーとスバル360から最新型スバル車の変遷をたどりたいと思います。