スバル360のことをまとめてみました・・・濱田まさゆき

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いまからおよそ40年前の1958年3月3日、日本市場に個性的で愛らしい乗用車が登場しました。それがスバルブランドの起源となった乗用車「スバル360」。

この「スバル360」は、1955年に通産省が提示した乗用車の普及促進政策に呼応する形で開発されたものです。当時の日本では、まだクルマといえば商用車がほとんどであり、一般家庭にとって乗用車を持つことは夢のような時代でした。そこで国産乗用車の開発/普及を進め、それにより日本の自動車産業を育成していこうという方針が打ち出されたのです。

手頃な価格で買える、しかも小型で高性能なクルマという課題は技術的にも難しく、敬遠するメーカーも少なくはありませんでした。しかし航空機作りをルーツとするスバルは、その誇りと高水準の技術力をもって難しいテーマに挑戦。他社に先駆け「スバル360」を開発し、日本の自動車史上に大きな足跡を残したのです。

排気量356ccの強制空冷2サイクル2気筒エンジン。駆動方式は後輪駆動。そして車両重量385kg。随所に創意工夫をこらした「スバル360」は、4人乗りで最高速度83km/hを発揮しました。しかも走行安定性、乗り心地、高速時の操縦安定性などは小型4輪車と比べても技術的には何等遜色はなく、自動車関係者および報道関係者は「世界水準をいくミニカー」と、こぞって絶賛したものです。

「スバル360」には、そのかわいい姿から「てんとう虫」という愛称が与えられ、登場後12年にわたり長く人々に親しまれ続けました。根強いファンは少なくはなく、今でも「スバル360」が街中を走る姿はしばしば目にすることができます。

排気量わずか360ccのかわいらしいクルマスバル360は、その小さな車体に豊かな創性と合理性、高い性能と大きな夢を盛り込んでいました。

1958年の誕生以来、R2にバトンタッチするまでの約12年間にわたり、大きなモデルチェンジをすることもなく作り続けられたスバル360は、日本のモータリゼーションの発展に大きく貢献したと言えるでしょう。

スバルが世に初めて送り出した名車スバル360。かわいらしいボディながら、乗用車に負けない走行性能と乗り心地を持つこのクルマが、まだ舗装が行き届いていなかった日本の道路をどこまでも走り続けるその姿は人々を驚かせました。そして、日本のモータリゼーションの先駆けとなって、デビュー以降12年間に渡って作り続けられる傑作車となったのです。

スバル360の息吹はデビューからさかのぼること3年前の昭和30年(1955年)12月9日に芽生えました。試作段階での名称は“K-10”。ここでは、そのK-10がスバル360としてデビューするまでの物語をご紹介しましょう。

昭和30年12月9日、伊勢崎製作所で”4輪車計画懇談会”が開かれ、軽自動車の生産を公式のテーマとして検討することになりました。そしてつけられたコードネームが”K-10”。K-10試作の主要な課題は、

車体の軽量化、

生産の簡易さ、

大人4人の充分な車体スペースの確保、

快適な乗り心地の実現、

軽量で高出力・高耐久性エンジンを開発することにありました。

軽自動車の枠のなかで、製造原価の低減と小型車並みの性能の実現という相反する要求を同時に満たし、ひとつの設計思想のなかにまとめあげるのは容易ではありませんでしたが、スバルのエンジニアは、この”大きな冒険”に挑戦したのです。

車重の軽量化はモノコックボディを採用したことを初め、鋲一本一本の頭を平らにすることで軽量化を図ったという、かつての航空機技術が随所に生かされました。

最大の課題である乗り心地は、”悪路を時速60kmで飛ばせる車”を合い言葉にしましたが、車両重量、懸架装置、スプリングなどミニカーの場合は多くの悪条件が重なって困難を極めました。しかし、理想のミニカー造りに情熱を賭けた技術者たちは、ついに当時の国産自動車には全くみられなかった4輪独立懸架装置を開発しこれを解決したのです。エンジンの試作も難問を極めましたが、走行テストの最大目標であった赤城山の新坂平(全長14km、平均勾配13度、でこぼこした石ころばかりの悪路)の全力登板に成功するとともに、運輸省の認定テストでも16.7馬力をマークし高出力化を達成しました。しかも、その燃費は1リットルあたり26kmで、小型車のそれを大幅にしのぐ経済性を実現しました。ボディースタイルは、「国民車を意識したこの種の車は、時代感覚を備えながら、しかも時代を超えた長い期間、モデルチェンジを必要としないスタイルをとるべきである」との考え方をもとに、佐々木達三氏を中心として、設計技術者、生産技術者、デザイナーが一緒になって検討し、倉庫の片隅で着々と進行していきました。

こうして、寝ても覚めても難題との解決に取り組み、ベストをつくした結果、

全長2.99m、全幅1.3m、全高1.38m、車両重量385kgの枠内に、モノコック構造、空冷2サイクルエンジン、RR方式、四輪独立懸架、樹脂製ルーフなど数々の画期的な技術を採用し、乗り心地、操縦性、安定性など、小型車 に劣らない性能をあげたK-10は”スバル360”と命名され、昭和33年3月3日に人々の前に姿を現しました。

スバル360_3

スバル360_工場の様子

第一号車のオーナーは、松下幸之助だったそうです。
当初スバル360はCMや広告をあまり打たず、懸賞品として提供して広告効果を狙っていましたが、次第にCMや広告を打つようになりました。
しかし、なによりもの広告は発表当時の新聞記事でしょう。
運輸省から「国民車構想」が発表されたときから、国民の関心事は「どこが最初に国民車を出すか」でした。トヨタの1A1や三菱の500など、いくつもの候補が上がりました。三菱500はかなり近いものでしたが、より維持費の安い軽自動車が待たれていました。
下馬評で有力だったトヨタやダットサンを差し置いて富士重がこうして国民車を発表するとは、誰もが思ってもみなかったことだったのです。その衝撃、そして実車の作りに、誰もが注目したのです。多くの新聞や雑誌で取り上げられ、その名を知られることになりました。

松下幸之助

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